the garden of entropy

芸術カルチャーらへんが好きなKO学生が書く粗雑な感想たち。基本思いつきなので途中で投げ出したりするけど許してネ。

存在の耐えられない軽さ

元々クンデラという名前は知っていた。題名がすごく印象的だったし。

LAに行って、感じたことへの答えがこの中にあるんじゃないかなあと直感的に思ったのでほぼ衝動的に本屋さんで購入しました。

ていうかね、この↓の画像の帯に「20世紀恋愛小説の最高傑作」だとかなんとかキャッチコピーが書いてあるが。

私はこの小説を恋愛小説だとは思わない。

確かに小説で描いてることは一貫して男女の関係だけれど、クンデラが書きたかったのはそこではないと思う。

この小説の始まりは作者であるクンデラの視点から始まる。ニーチェ永劫回帰について触れたあと、主人公であるとマーシュが何であるかということについて言及するのだ。その時点でなんだかパンチ効いた小説だな・・・。と感じていたがその印象は小説全体を読んでも変わらなかった。途中ベートーヴェンの楽譜を盛り込んだり、辞書みたいな書き方をしたり・・・。初めてみる小説の書き方をしていた。

まあ内容は読んでのお楽しみってことで。

私は内容よりも途中で盛り込まれるクンデラの哲学観(なのかな、とりあえず考え方)に衝撃というか、これだ!と思った。

Es muss sein!

これはベートーヴェンの一説らしく、小説の中に数えきれないくらい登場する。ドイツ語を直訳すると「そうでなければならない」となる。 人生が「そうでなければならない」という意味でしばしば楽譜と共に登場する。

このEs muss seinと価値と必要性が「重さ」として描かれている。人生において自分を地面へと結びつけるもの、決められた道を歩かせるように自分への「重り」としてあるのだ。ここで一部引用したい。

≪あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えること憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的となり、より真実味を帯びてくる。それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。≫

私がこれだ!と思った文(笑) 

Es muss seinへの度重なる裏切りによって、人は自由になると同時に「存在の耐えられない軽さ」を手に入れると述べている。伝統とか決まり事を裏切り続けることによって自由は会得できるけど、同時に人生の価値とか必要性を失うのだ。と。

また理想化されたEs muss sein、存在との絶対的同意は俗悪(キッチュ)なものにつながると述べている。社会主義による理想社会を唱えて「大行進」していた人々を指して俗悪なものだと言っている。たとえば異常に誇張された虚像に過ぎない幸福像だったり。共産主義とか北のコリアが私には思い浮かんだ。

兄弟愛みたいなものを強要するものはすべて俗悪だとクンデラは言っちゃっている。まあその通りだね。そして存在は死したあと俗悪なものとなり忘却されるのだとも。つまり人間が死んだあとは本人の意思とは関係なく存在は勝手に理想化され、良いようにいじくりまわされた挙句忘れられるということ。まあレジェンドとか基本そうだよなあ。マイケルジャクソンだって何か死んだら更にスポットライト当たったもんね。当時人々が死んだ直後に手のひらを返したように「あれは冤罪だった」「彼の肌は正真正銘の病気だったのにマスコミが・・・」と云々言い出した時、それ生きてるときに言ってやれよと思ったのを覚えている。

クンデラはきれいごとばっかりの存在論みたいなものを俗悪なものだと言って否定し、人間の重さや軽さについて当時の世界情勢に合わせて語っている。前衛的な文章と鋭い視点はすごいのに、小難しく語ってないのが良い。彼はまだご存命みたいだけどもう作品は書かないのかな?他作品も読もうっと。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
(1998/11)
ミラン クンデラ

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Let us meet Lost Angels ~失われた天使に会いに行きました2014~

今更ながらLAまとめたいな~と思ったのでこちらで。

ただの旅行ながら色々感じたり触れたりしたので記憶書きに書こうと思います。

まあ学生旅行といえなんか凄まじい日程滞在しました、途中死んだり無駄遣いしたけどすごい楽しかった。また行きたい。

LA、西海岸、ウエストコースト、サーフ、ハリウッド、ビーチ、ウェッサイ!w イメージそのまま、いや寧ろ思ったよりも治安が良い世界がそこに広がっていた。 夜中に外出したらその瞬間撃たれるのかと思いきや全然そんなことはないのであった。

滞在は会社さんの都合であのビバリーヒルズ近くに泊まりました。超治安良いしおしゃんなスーパーとかたくさんあったよ・・・モールも隣接してて最高だったよ・・・。

とりあえず、LAってめちゃめちゃ広い!当たり前なんだけど多分私達が考えるよりもずっとずっと大きかった。

全部は回れなかったな。けど、メインどころは行きました。

サーフロックが鳴り響く光の砂浜、ビキニ姿の女の子、そして砂に寝そべりながら少し眩しそうな目をした男の子。

8ミリフィルムの中、笑顔のハリウッドスター。銃を片手にシニカルな笑みを浮かべるジェームスディーン。

いいとこだったネ

ゆるやかな時間の流れ、自由な空気、過ごしやすい気候・・・。老後に住んじゃう人の気持ちわかるな!

ただ、自由な空気故に不思議な孤独感があった。 街の人たちはみんなフレンドリーだし敵意も無かった。けど、同時に自由に付随する自己責任を感じるというか。 どんなことがあっても誰も守ってくれない、自分の身は自分で守らなきゃいけない。それを何故だかのどかな風景の中でぴりぴりと感じ取った。 好き勝手生きて良い代わりに庇護や啓示はないのかなあと思った。日本は息苦しいといわれているけどそれは伝統とか家族制度みたいなしがらみによる自由の利かなさを指してるんだよね。アメリカはそれが無い代わりに存在がふわふわしちゃいそう。存在の耐えられない軽さ?クンデラだね

UCLAが所蔵しているHummer美術館も行ったのだけれど そこでTシャツとキャンディと紙をtake freeで貰いました。

Tシャツは「UP AGAINST THE WALL MOTHER FUCKER」と黒文字ででかでかと書かれているやつ(笑)反骨精神ごりごりなんでパジャマに愛用してます。そして紙には、過去に銃関連の事件事故で死亡した人の死亡日時と詳細な死因が書かれた紙でした。顔写真もついてたから銃社会というのがいきなりリアリティをもって近くに感じられた。

北野武が100人死亡とかざっと報道するのは統計的すぎて事の重大さが伝わらないとかなんとか言ったらしいけど、確かにそう感じた。こうやって顔と日時、死因を見ていたらその人の死というのがニュースで聞くよりもずっとずっと重くのしかかってくる。こういう社会派アートのが好きかなあ。友達は怖すぎて持ってたくねえ!!と拒否っていたw ハマー美術館、動物の死骸のタールづけとか飾ってたり全体的に殺伐としたものが多かった気がする。。 卓球できる楽しい展示もあったけど。

とりあえずここだけ!いや、もっとも~っとたくさん行ったんですよ、ハリウッドもサンタモニカもヴェニスダウンタウンもグラミー博物館もパンケーキもアボットケニーも・・・!

けど書きたいのこれだけだからいいや

失われた天使には会えた気がします。

どこでって?

おしえない

スヌープドックかブライアンに聞けばわかるんじゃない

ジムモリソンも知ってるかもね

ひどい終わり方

Andy Worhol展(ラファエル前派も)

所謂 森美はしごしてきました。

なんかアンディ・ウォーホルの先行イメージがあまり良くなくて、アメアパ系女子とか浅いくそ男とかが「アンディウォーホルいいよね~(ドヤ)」と言って酔いしれているイメージがあった。そんな感じの人々は若干イラッとするとも思っていて。。だから自分の中であまり大声で好きと言えないアーティストという位置づけにしていた。

まあアメリカンポップアートなんて消費を目的としたアートだし、アートを見る!というよりは可愛い雑貨を見に行くつもりで行ったけれど、思ったよりもアンディウォーホルの哲学というのが私的にぐっときた。

アンディウォーホルって本当に「アメリカらしさ」みたいなものを体現?している。大量消費、アメリカ賛美、大衆、、、すべてのシンボルを持っていた。

ハインツ、キャンベル、ハリウッドスター、レーガン大統領。去年とったアメリカ論でこのすべてはアメリカの大量消費社会と大衆向け文化の象徴とやったのを思い出して繋がった気がした。

ファクトリーと呼ばれるアトリエ的な場所で芸術作品を大量生産するというのはその時代では革新的なことだったのかな。大量生産が不可能に近い西洋絵画がメインストリームだったころと比べたら本当にそのアメリカ的な考え方って衝撃だったんじゃないかと思うんだけれど・・・。

アンディウォーホルは「アートが選ばれた少数のためにあるべきだとは思わない、アメリカの一般大衆のためさ」とか「表面がすべて、裏はなにもない」だとか「記者が求める通りに僕は答えるよ」と言い残したらしい。

それは少しidol的というか、大衆に求められた通りの自分を演じ続けるという意思表示なんじゃないかな~と私は感じた。大衆っていうとても身勝手で残酷で流されやすい最低最悪な集団(だと私は思っている笑)に消費されるというのは血の通った人間には到底不可能だ。だってとりあえず人間は消費物ではないし。しかしアンディウォーホルは「人間はすべて機械であるべきなのさ」と言っている。それって、時代に合わせて人間も消費されるようになるべきだという彼なりの哲学があるのだろう。

アメリカンポップアートってまあ”アメリカン”がついているだけあって資本主義の権化みたいなアートなのかもな~~けど、持ち物として「消費」しやすいので私は普通にすきです。

けどアートは大衆向けであるべきなのか選ばれた少数にあるべきなのか。大衆向けはアートじゃないのかっていう論争は割とあるようなないような。まあどちらにしろアートがアクセサリー化するのはよくないのかね。いや、結論別にそれぞれの楽しみ方があるんちゃうとか思うけど・・笑 

ラファエル前派はふつうに綺麗でした~終わり~

いや、あの写実的だけれども神話モチーフなのすごく好きです。ただその一言に尽きます。

いつかの世界史本で読んだアーサー王の7人の予言?みたいなシーンの絵がすごくすごく綺麗で絵柄的にラファエル前派っぽかったんだけど未だに見つからないのが心残りだなあ。

小沢健二が出たいいともを見た

あ~久々すぎる。

色々めんどくさいことが起きて、いろいろめんどくさいことをして、気分は下がっていたけどなんだかんだでそれを上回るくらい楽しいこともあったので持ち直しました。

また英訳したいな~ムーンリバーとかでやっちゃうかあ

そんなこんなで今日、2014年3月20日、憧れのあの人は16年ぶりにメディアに出るらしい。

短絡的な私はとりあえず わ~いと思いつつ録画予約を入れ、怠惰な生活の昼に8チャンネルを点ける。

16年ぶり、じゃあ私が4歳だったころが最後のメディア露出なんだ。

まあFNSだとかポンキッキとか、おざけんはフジTVと癒着しているイメージもあったし、タモリさんと通じ合ってる(何だろうそれ)イメージもあったのでいいとも出演っていうのはしっくり来た。

FNSでキョンキョンとコラボしたおざけんが歌っている最中にキョンキョンの手をがっしりとつかんでいて、キョンキョンが苦笑いしていたあの映像をよく覚えている。ほんとふぁっきんチャラ王子だぜ。

どきどきしながら鶴瓶師匠の体を張った芸を見過ごしていると、あの見慣れたセットに映像が変わる。そして見慣れたあのブラス音楽、そしてタモリさんがその名前を呼んだ瞬間、ふらりという擬音がぴったりな様子で彼は現れた。

私は所謂情弱なわけで、ライブも展覧会も行けてない。ていうか、ふら~っと中学二年のころにyoutubeで見つけたFlipper's guitarに惹かれてそのついでにおざけんをみつけて、TSUTAYAで漁った程度のファンだ。当時、母親に「おざけんとかナヨナヨしてるじゃない、趣味悪いわよ」と言われたのを覚えている。なんというか、私は本当に流れというものに疎くて小沢健二がこんなにメインストリームの人間だということも知らなかった。大学のサークルに入って初めてこの人ってこんな人気だったんだ。ということに気が付いた程だ。いやほんと知ってたら一年最初の曲だしおざけんにしたのになあ、もう遅いんだけど。って関係ねえこの話。

あの見慣れた顔には時の流れを感じさせる程にしわが刻まれている。相変わらずのボーダー。90年代女子はこのひょろっとした体とボーダーシャツに熱狂したんだろうなあ。彼は前よりも少し覇気が無くなったように感じた、声?なんだろう。

今までなにをしていたか、音楽、子供について。そんな話(既出の話多かったネ)をつらつらとして突然の弾き語り。強い気持ち・強い愛から始まってさよならなんて云えないよとかドアをノックするのは誰だ?とかアコギで弾き語って、そしてまさかの総理に次の電話を繋ぎ終わった。

結論はもう、羨望しかない。

こういう人生を送りたい。

そのために何をすればいいのだろうか。

けど模倣に過ぎない人生なんて絶対に嫌だ。色々なものの模倣を組み合わせて新しいもの作りたい。

ただそのためには努力が必要不可欠なんだろうなあ。

がんばろ!

おざけんをみてそんなことを思ったのでした。

Hand in glove/the smiths

割と忙しくてやるやる詐欺と化してたが、やっとできた!

簡単な英語で訳しやすかった()

まあ、敢えてのデビューシングルのhand in gloveを選びました。

最近アルバムツアー中のマーさんのインタビュー(なんかおかしい)曰く「俺とモリッシーの関係から生まれた歌なんだぜ!」とのことですが・・・

HOMO? いやbromanceか・・・はい・・・

けどやっぱりこのぼんやりとした暗さは癖になる

モリッシーの世界観を世に知らしめた作品って感じなのかな?

いいよなあ

関係ないけど自伝読みづらいよおじいちゃん

Hand in glove

さあ共に行こう

The sun shines out of our behinds

太陽は僕たちを後ろから照らしてる。

No, it's not like any other love

そう、これは陳腐な愛なんかじゃない

This one is different because it's us

だって、僕たちの愛なんだもの。

Hand in glove

僕と君は同じ罪を共有した者同士

We can go wherever we please

どこへでも行ける。

And everything depends upon

How near you stand to me

そして全ては君が僕のそばにいるかどうかで決まるのさ。

And if the people stare

Then the people stare

Oh, I really don't know

And I really don't care

どんなに人々が好奇の目を向けようが、

僕は知らないし、気にしない。

Kiss my shades

僕の影に口づけをして

Hand in glove

相棒よ

The good people laugh

お偉い方々は笑う

Yes, we may be hidden by rags

ああ、僕たちはぼれきれで隠されるかもしれない

But we've something they'll never have

けどあいつらが一生かけても手に入れられないものを僕たちは持ってる。

Hand in glove

相棒よ

The sun shines out of our behinds

太陽は僕たちを後ろから照らしてる

Yes, we may be hidden by rags

ああ、僕たちはぼろきれで隠されるのかもね

But we've something they'll never have

けど、かけがえのないものを持ってる。

And if the people stare

Then the people stare

Oh, I really don't know

And I really don't care

どんなに好奇の目に晒されたって

僕は知らないし、気にもしない。

Kiss my shades

僕の影に口付けを落として。

So, hand in glove I stake my claim

そう、愛しい人よ。僕は声を高らかにして言おう

I'll fight to the last breath

命尽きるまで戦い続けると、

If they dare touch a hair on your head

もしあいつらが君の髪を触るような真似をしたら

I'll fight to the last breath

僕は命尽きるまで戦おう

For the good life is out there somewhere

目指されるべき人生はここではないどこかにあるんだ

So stay on my arm, you little charmer

だから僕の腕のなかでじっとしていて、愛しい人よ

But I know my luck too well

けど僕がどれだけ幸運かってことはわかってるよ

Yes, I know my luck too well

わかりすぎてるくらいさ

And I'll probably never see you again

多分、君を見ることはもうないのだろうね、

I'll probably never see you again

多分、もう二度と・・・

I'll probably never see you again

Hand in gloveの部分はそのままHand in gloveでいいんじゃないかなと思ってけれど一応日本語でかいときました。

グローブの中でぴったりと合った手を表していて、共謀者とか親しい仲を表すそうです(多分、基本的に同性間)

共謀者っていいね

一見合わなそうな二人なのに、ここまでの関係になるのって、やっぱり人の組み合わせって無限大なのだなあ

しかし、ピートはこの曲にあるモリッシーとマーみたいな関係になりたかったのかな。

まあ、なれてると思うよ!!!

偶像崇拝という救い

歌詞和訳したいのにー

近いうちにしよう。

敢えてスミスに挑戦してみようかと

なんだか、最近新学期のせいかこう、自分を省みる?っていうのかな、そんなことが多くなって

自分の社会不適合性に日々驚いていたりする。

いや~ほんとモリッシーとかロックスターみたく生きたくなっちゃうけどそれは才能に自信がある人々だからできたことでwwwwwわたしはwwwwwなんなのとwwwww

まあとりあえず本読んで美を愛でよう

楽しいことをやってればいつかやる気もでるだろう

モリッシーになりたいって80年代のUKの人々みんな思ってたんだろな~

私もそんな一人だ

てか今の日本って80年代のUKと変わらんと思うのよ、だからあの時のスミスみたいなバンドが絶対流行ってるはず!あんまり聞いたことないんだけどクリープハイプとかandymoriとかそれに値するのかな?どうなのかな?歌詞が少し暗めで曲がってるイメージがあるんだけど。そこらへんの邦楽サブカルバンドも聞いてみたいな。

世界史の先生が「何か災害があった年は宗教が流行るんです。人は拠り所が無いと生きていけないから。震災後の今の書店を見ましたか?今からでもわかる仏教とか、般若心経とかそんなのばかりですよ」と言っていたのを覚えている。

それはすごくわかるんだよなあ。私も人の嫌なところみちゃったり、嫌なニュースとか見てしまった後はすごく嫌になって漫画とか本にのめりこむ節がある。けどそれは人間みんな一緒だ。

そののめり込む対象がイエスであったり、ブッダ、アッラー、はたまたジャニーズやらバンドだったりするのだ。

それをひっくるめて「偶像」と表現したら多少ぶっ殺されるかもしれないので明言は避けておこうw

ただ、何かしらの「拠り所」としてそれは存在しているのだとおもう。

だってそれはいつだって正しい。自分にとっての絶対的なものだから。救いなのだ。

なんてかっこよく言ってるけどつまりあれだよ、人間の愚かさとか小ささを思い知って絶望してもその対象はなにも変わらないから寄りかかれるんだよ!移ろいやすい人の気持ちとかなんかとくらべものにならないくらい安定してる。だって「偶像」だもん。

アイドルって名前つけた人すごいよなあ~ 真理だよ。

私は彼らというよりも彼らの美しさがすきです。だってその瞬間のそれは一生消えない!たったの一瞬だけだとしてもそこに、記憶の中に、一生残り続ける。

けどぶっちゃけそのために使い捨てみたいな節はあるんだろうな、ほんと大変なお仕事ですよね。

ってことを言いたかっただけなんだけど、文章力がなーいっ

どうやったらつくのだ、文章力

Musical Of The Prince Of Tennis

青春商法とはなんたるかについて考えてみたりします。

まだ私も人によっては青春と呼ばれる時期にあると思うのでまだわかったような口を利く立場ではないのかもしれないけれど。

実はテニミュを観劇してきました。

ぶっちゃけ見る前は顔の良い男の子たちのバイトみたいなもんなのかなと少し見下していた部分がありましたが。

期待を大幅に上回るクオリティの高さにびっくりしました。

歌うまい!ダンス激しい!そして美青年、美少年!

古代ギリシアの学者ばりに美を愛でてしまった(高尚な表現www)

イケメンとハイタッチするという謎のイベントも発生して充分に美パワー(?)を受け取りました。

まあこのミュージカルの代名詞は「青春体感型ミュージカル」ということで。

演じるものが中学生(ちょっと違和感あるけど)という青春ど真ん中だからこういう題名がつけられたんだと思いますが。それと同時に俳優さんたちのテニミュを通した青春にもフォーカスを当てているのかな~と。

結構昔から某動画サイト等でバックステージの映像?は見ていたのですが、その千穐楽とかの映像がすごくぐっとくるんですよね。俳優さんの微妙な一言だったり色々なものがこう、青春!って感じなんですよ。

AKBのドキュメンタリー映画で「10年後、少女たちは今の自分をどう思うのだろうか?」っていうのがあったと思うんですが、この題名ってすごく青春の刹那性?過ぎ去る感じを内包してていいな~って思ったんですよ。

このテニミュも基本的にメンバー入れ替え制で、そのときのメンバーと共にやるのってまあ1、2年間くらいが相場なのかな?卒業っていう名目で旅立つわけですが。なんというか、やっぱその刹那性にぐっとくるんですよ!

人間ってやっぱ無くなりそうなものとか既に無いものを欲しがる傾向ってあるとおもうんだよなあ~

なんだかんだで死に近い人のが美しくみえるとかありません?

多分AKBであれ、テニミュであれ少し作為的にその刹那性や青春らしさを演出しているところはあるとおもうんだけれども、それでもぐっとくる。 かけがえのない一瞬を美しいものが過ごしてるのってすばらしいと思うん!!

美しいものは鑑賞だけしておきたいな~というのが私の本音なので、作為的に作ったものを見せて頂ければ充分だと思っている。

人間やっぱり色々な面があるし、その”美しい”という好意的な偏見が当人への足枷とか障害になることもあると思うので、現実にはあまり押し付けたくない。

だからゴシップ雑誌とかいらないと思うんすよ、見ててたのしいけどさあ。現実は好きにさせてあげてくれよおおって。

IDOL=偶像 が好きなのです。

サン・ピエトロ大聖堂ピエタをぼんやりと崇拝するキリスト教徒の気持ちと一緒だと私は勝手におもっているよ。人間一つだけ、唯一理想通りであり続ける偶像という拠り所を必要としているんじゃなかろうか。