the garden of entropy

芸術カルチャーらへんが好きなKO学生が書く粗雑な感想たち。基本思いつきなので途中で投げ出したりするけど許してネ。

Q「毛美子不毛話」「妖精の問題」

TPAMの一環としてSTスポットにて二日に分けて観劇しました。昨年とついこの前に二つともスクリプトだけ読んでいたのですが、やはり演劇は文字と劇で全然違うのがとても印象的でした。

 特に「妖精の問題」は竹内さんの技量に役者さんの根性みたいなものを感じていやあ凄い、凄いなあと。まずスクリプトで二部をあんなピアノ伴奏付きで語る(しかもピアノがエモーショナルで素敵)とは考えつかなかった。けれどピアノの美しい旋律と豚の脂の臭いが立ち込める情景が混ざりあって露悪的な全てを更に強めていた、この世に蔓延る微妙な悪意と差別と嫌悪感をどでかく戯画化したのかと思いきや現代では意外と現実でこういうことが起きていることだよなあと思う。こういうナチュラルボーン・カルトは割とおばさんとか同級生、シェアハウスの人たちの間でも占いに始まり添加物フォビアやら放射能フォビアからの陰謀論とか語りだす友達のママとか実はいる。かつブスは死ねという男は学生時代なにも自分を省みることもしないで無恥に生きてたやつをお思い出す。Twitterで怒れる思考停止無知人間たちがマジョリティーになったら本当にこの戯曲のような世界が広がるんじゃないかと思う。これを見た後、横浜駅でホームレスと障がい者を見てどきりとした、恐怖みたいな後ろめたさみたいないやな気持ち。   

 毛美子不毛話は去年ノミネートされた際にスクリプトを読んで一番面白いと思っていたので絶対観ようと決めていた。合皮のパンプスと陰謀論に踊らされている従順なわたしと毛深くて強いわたし、フェミニズムか?と思わせるようでそんなことでもなくて、意味があるようで意味のないものの堆積がなぜか強く響く。俺巨根なんだわ、というチャームを唱え続けるヒロシ、寧ろ踊っている女、思考停止したOLになりたいと言ってなるわたし、全員が交わらない。けど全員似ている。不安とぽっかり空いた穴を埋めるためのまじない。ありのままで生きられない人間たちの不毛な人生。面白かった。もう一回観たい。武谷さん素晴らしかった。 

川上未映子×マームとジプシー『みえるわ』

運動体と言葉、生理的で感覚的で恍惚とした発語。妖精みたいにかわいい女の人と朽ちた夢みたいなお洋服。空間に雪崩れてくる運動体、初期の川上未映子は神懸ってる、先端でさすわ、さされるわ、そらええわ。私も暗唱してみるか。言葉は発した瞬間に私達の鼓膜に届いた瞬間に別の何かに変わったりするし何にもならなかったりする。私の人生で見えなかったものはどこにいってしまったのだろうか。

 

 

先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ

 

 

 

水瓶

水瓶

 

 

3月の五日間

 クリムトの絵には人間の塊みたいなのがよく描かれている。ウィーン大学の天井画の三作や、後期~晩年に描いた《死と生》、《花嫁》が代表的だ。苦しんでる人、抱き合ってる人、恍惚としてる人、寝ている人、男も女も子供も怪物も一緒くたにごちゃごちゃと塊となっている。私が初めて戯曲『3月の五日間』を読んだとき、なんだかこの人間の塊みたいな語り口だなあと感じた。

 ミノベくん、の話をしていた女の子が、いつのまにかミノベくんになり、ユッキーになり、またユッキーの話をする誰かになり、またいつのまにか別の人がアズマくんの話をする。人の境界線は曖昧で言葉もすべて曖昧、物語もすべて一定の距離を持って語られている。「みたいな」「らしい」「的な」という明言を避ける言い方が、やる気と責任感の欠如を物語っていて、演劇の全体を脱力感で包み込む。

 全てに対して一定の距離をとって、ぼうっと眺めているような登場人物たち。その意味では彼らは私たち観客と同じだ。目の前で起こっていることに一定の距離感を持って無関係なようで考えようと、関与しようと必死な眼差しを投げかける。

 ただし、ミッフィーちゃんは違う。勘違いして前のめって暴走して相手引かせてそれに気が付いて自己嫌悪そして希死念慮。痛い系、困った系女子。全人類一度はやったことのある過ち。というか痛い、って説明できないけど痛い感じの女の子と言われれば割と誰でもこういう感じかなみたいな想像はつく。ミッフィーちゃんはその典型だった。

 彼女は物語の中でも一人浮き続け、彼女自身は誰かを憑依させるようなことはなくただ永遠と自分を語り続ける。犯した過ち、自分の成り立ち、孤独感。そして彼女は火星に行こうとする。その孤独を突き付けられなくて済む宇宙空間へ。渋谷にいてもどうせ孤独なんだから火星にいても一緒だしね、と不思議な共感を感じた。 

 2003年、戦争は海の向こうの向こう側で起きていることだった。私は確か小学生で、周りも特にイラク戦争やばいね!なんて話もせず、まあ小学生だし、何もわかるはずもなくその後テレビでひげがもじゃもじゃのフセインが処刑される前の項垂れたような、がっかりしたような顔を見て、え、この人この後死ぬんだ。怖。って感じたのを覚えている。

 戯曲で描かれた人々は私よりも一回り上の大学生たちで、小学生だった私よりもデモに参加することができたり映画に一人で見に行くことができたり六本木のライブハウスに行くことができたりラブホテルで泊まりこんでやりまくることもできる。それはある程度の自由がある、というか自己選択権があるってことなんだと思う。けど結局都市の中で焦燥感のようなうっすらとした焦りを持ちながらなんとなく生きてしまう姿が私含めた同年代の周りの人間をよく表していて凄いなと思う。

 この戯曲は別に政治的な意味なんて無く確かリアル、を浮きだたせようとして書いたんだっけな。けど私自身の体験と戯曲がリンクして、ああ、もう少し頑張らなきゃと勇気づけられる。あとトラフ建築設計事務所の舞台美術が素晴らしかった。横断歩道を装飾文様的にしちゃうの素敵。

 

三月の5日間[リクリエイテッド版]

三月の5日間[リクリエイテッド版]

 

 

また文章を書こうと思い

最近、色々な体験をしているのに何もアウトプットできていないなあと反省し、このブログを掘り出してまた更新し出すことを決めた。

 

文章を書くことが好きだったはずなのに忙しい(と思い込んだり、思わされたり)毎日のせいでここ一年あまり言葉に向き合わなかった気がする。

 

自分自身の好きを仕事に生きている人やや、素晴らしい技能を持った人々と会う機会が増えて、自分自身の技能の低さを憂い(すげー言葉遣いだ)きちんと自分の好きを極めてみようと腹を括った。

 

頑張りまっす。

ぬるく。ゆるく。けど、本気で!

草間彌生作品における命の輝き

 日本を代表する前衛芸術家、草間彌生草間彌生の作品と言えば、周知のとおりあの水玉が支配する物質と世界のイメージだった。ポップでありながらどこか不安と寒気を感じさせる赤と白の斑点。何故人間はトライフォビアが多いのだろう。私もブツブツ蓮コラが嫌い。けど気孔だって細胞核だって精子卵子も毛穴も全て細かく開けられた穴と円だ。斑点は命の根源とだっていえそうなものなのに、私たちはその斑点を見て寒気を覚え不快になる。

 草間の作品では「目」と「男根」も増殖し続けている。闇の中でこちらを見ている無数の目。感情もなくただこちらを眺めている目。男根、というよりはもはや排泄物に見える円錐と円柱の中間みたいな形をしたそれがびっしりと詰まった世界。初期は肉塊のような薄紫色のなにかに支配された世界だったのが段々と腐りかけた有機物に生えるカビみたいなポップな色合いへと変化していく。いつか私が放置したメンマに生えたビビットレッドの丸くてぷっくりしたカビ、見た瞬間に背筋がぞわりとして分別も無視してゴミ箱に投げ込んだ。草間の展覧会を見ているとき、そのカビは生命の循環だったことに気が付いた。有機物(人間も含む)は循環、動くことをやめた瞬間に腐りはじめる。私たちも息が止まった瞬間、血が流れなくなったその瞬間から腐る。それは肉体という物質を得た時から決まっていたこと。しかし、いわゆる「死」と呼ばれるそれは終わりではない。腐り始めた瞬間、蛆虫やカビ、そして菌たちが肉体を分解しそして無へと(厳密にいうと、それぞれの中へと)還してくれる。それは命の円環であり、汚物に塗れ悪臭を放つ過程でありながら命が繋がっていくという崇高な瞬間でもある。

 草間の作品の斑点やどこかアボリジニの作品からの影響を感じさせる虫の絵、はたまた菌やゲノムのようなモティーフには寒気を感じさせる気持ち悪さと、その営みに見える命の輝きへの感動を感じた。結局文明を手に入れて潔癖なんてものになろうと私たちの体内では無数の菌が蠢いており、それに生かされているという事実。トライフォビアで潔癖の私たちが嫌悪し不快に感じるそのモティーフにこそ命の輝きがあるのだ。死を巻き込む勢いで突き進む草間彌生は本当に美しい。

 

ホー・チ・ミン市のミラーボール―②

 朝早く日本を出て、着いた先はかのホー・チ・ミンシティであった。想像はしていたが、熱い。春とはいえここは熱帯だ。

 空港を出て驚いたのは、そのほとんど無秩序ともいえる道路交通だ。バイク大国であることは知っていたが、交通ルールって何?レベルのなんでもありな状況であった。日本よりも数十倍交通事故が多いらしいが、そりゃそうだろうという感じ。バイクの多さは本当に笑ってしまったし、しかも渋滞を避けるために歩道を爆走するバイクもいる! 日本とは比べものにならないレベルの無秩序さであった。 

ベンタイン市場前の道路。実際これ以上にバイクの数は多い。

 

  ホーチミンシティはプロトタイプ通り「東南アジア」「発展途上国」の風景だ。私はこの景色を見たことがある、と何度も思った。フィリピン、インド、ブータン…。タイはバンコクパタヤしか行ったことないから何とも言えないけれど、もうちょい綺麗だった。あの排気ガス、土埃、屋台、市場…そして何処か生き生きとした人々はこの国々が共有する風景なのだろうか。強い日差しの中で立ち上る陽炎と土埃、どこかれかまわずゴミを燃やす感じが同じである。あとやっぱりちょっときたないところが。笑 

 同じ様に「この景色を見たことがある」と思ったのは、ホーチミン市中心部にある人民委員会である。人民委員会前には大きく手を挙げたホーチミン像が佇んでいる。

 大きなホーチミン像。その前はサイゴン川まで大きな開けた通りとなっており、噴水等が置かれている。夜になると多くの人が集まる憩いの場だ。まさにこの風景、チェコで見たことを思いだした。プラハの春が行われたあの ヴァーツラフ広場だ。

 思えばロシアも赤の広場はこうやってレーニン像を中心として開けた広場だろうし、旧共産圏、社会主義に共通した広場の作り方なのだろうか。

 因みにこの銅像からサイゴン川に広がるグエンフエ通りは中々いい感じである。歩行者天国とされている真ん中の大きな道は、人民委員会からサイゴン川まで続く。夜になるとライトアップされ、そこらへんがストリートミュージシャンや語らう若い人たちで溢れかえるオシャレスポットだ。真ん中のホコ天をバイクからの逃げ道としてよく利用していた。

  昼間の日差しが容赦なく体力を奪っていくホーチミンシティ。そんな場所での夜は涼しくて過ごしやすい時間であった。ルーフトップバーから見るサイゴン川にはハイネケンの広告が光り輝いている。(ハイネケンの赤星とベトナムの国旗の一致は敢えてなのだろうか)

 

 今回題名として借りたのはdCprGの曲名である。旅紀行の題に曲名を借りるのは少し恥ずかしいが、この曲を聴いた時の感動が忘れられなかったので引用させて頂いた。DCPRG、今や改名しdCprGである。アフロ=ポリリズムを切り開いたバンドだとか専門用語を使いだすと私も自信が持てないので省くが、どこかでチラっと訊いた(一度下っ端としてインタビューに行った時かもしれない)ご本人の発言で「アメリカなるものを表現するために結成したバンド」とおっしゃっていたのをうっすら覚えている。

 アメリカなるもの。それは日本に住んでいる私達が言うことで独特の意味を帯びる気がする。日本が第二次大戦でアメリカに敗した後、ベトナムは同じくアメリカと泥沼戦争を行った。枯れ葉剤、ゲリラ、北爆、反戦運動。当時ベトナムの人々、そしてアメリカの兵士たちの命は塵よりも軽く扱われていた。ベトナム戦争の話はハノイでの滞在や戦争博物館についてを交えつつ次で書こうと思う。フォレストガンプを始めとしたアメリカ映画たちにもベトナム戦争の暗い跡がちらついている。アメリカなるものにとって、ベトナムとはどういった意味を持つのだろうか。

 ホーチミンシティ、かつてはサイゴン。元々はアメリカによる支援を受けていた南ベトナムの首都だ。二次大戦からインドシナ戦争中越戦争に至るまで彼らは40年間、ずっと戦争をしていた。アメリカ、ソ連、フランス、中国という大きな力を跳ね除けるために。そんな中、1975年4月30日、北ベトナムの猛攻によりサイゴンは陥落し、翌年1976年7月2日ベトナム社会主義共和国が建国される。彼らは米ソが全てを握っていた世界構造に一つの大きなヒビを入れたのだ。マルクスレーニン主義に感動し民族独立を夢見たホーチミンの心は叶い、ドイモイ政策での急成長でベトナムは今や世界経済を支える国となっている。

 アメリカにとって、ベトナム戦争は誤算だったというのは有名すぎる話だ。しかし、あの大きな国はベトナムの存在によって、自身の持っている矛盾に気付かされたのではないか。60年代、ホーチミン市のミラーボールはベトナム反戦運動に明け暮れ、段々と厭世的になっていく若者たちを照らす。そうして70年代、アメリカでは厭世を吹き飛ばすディスコ・フィーバーが起こる。それは絶望の後に人々が作りだした悦楽だ。

 ミラーボールはディスコの上で回り続ける。毒々しい光を反射させ、踊っているもの達を夢へと誘う。ベトナムの国旗は真っ赤な色の中心に、鮮やかな黄色い星が描かれている。流された血の上に光るその星は、独立の象徴だ。私達アジア人にとっては、ホーチミン市のミラーボールは20世紀の悪夢に唯一光る希望なのかもしれない。

一応、ホーチミン市のミラーボールらしきもの。

様々な文化がぶつかりあった地、ベトナム―①

3月6日から14日まで、機中泊を含め計7泊、ベトナムへと旅行してきた。

 

まず最初にホーチミン三泊→ホイアン二泊→ハノイ三泊というプランだった。水曜どうでしょうには至らないが軽いベトナム縦断の旅である。(といってもフエやディエンビエンフーに寄ってないのは中々の痛手)

 

何故ベトナムなのかというと、まあ発展途上国大好き系大学生(?)なのもあるが、高校時代からずっと行ってみたいと願っていた国だからである。世界史でも特段重要な位置を占めているベトナム。徴姉妹の反乱、ドンソン文化、チャンパー(はどっちかというとカンボジアか?)、阮朝李朝…そしてベトナム戦争からのドイモイ政策は受験勉強を終えてしばらくしてからも思い出せる。

 

行く前は漠然と、ポストコロニアル的な世界を思い描いていた。フランス支配の影響やアメリカとの戦争を経て生まれた西洋と東洋がぶつかりあった地なのだと。しかしベトナム史の新書を読みいざ行ってみると、そのような面よりも中国の色が強いことに気がついた。もちろん西洋の色も濃い。かつてチュノムで書かれていた言葉たちはフランスの発音記号へと直されているし、多くの主要建物は西洋風の建築にされている。しかし所謂歴史的建造物、そして偉人たちの名から感じるのは中国の文化である。それもそのはず、ベトナムは日本と同じく中国の冊封国として存在していた。ベトナムのナムは「南」という意味で中国の南という意味だそうだ。それ故に本国の人々は「大越国」という名称を用いるようにしていたそうだが、今現在はベトナムという名を用いている。(それは現政権がかつて中国の支援を得て作られたものだからというのもあるらしい)

また少し笑ってしまうような一言だが、私が考えるよりもずっとずっと社会主義国であった。街にはそこらじゅうにプロパガンダが掲げられている。偶像と化したホーチミンの肖像たち、真っ赤な背景、深緑の軍服を来た国民たち。北朝鮮ソ連のイメージでしかなかったものが実在として目の前にあるのは感動だった。未だに共産党一党独裁ということだが、まあシンガポール然りそのおかげであの戦争の荒廃を乗り越え現在に至っているのだろう

今回そんなベトナム旅行記をささやかなながら写真と共に書かせていただく。