the garden of entropy

芸術カルチャーらへんが好きなKO学生が書く粗雑な感想たち。基本思いつきなので途中で投げ出したりするけど許してネ。

ウティット・へ―マームーン×岡田利規『プラータナー 憑依のポートレイト』バンコク公演

チュラロンコン大学にて初演が行われていた『プラータナー』を観劇。

タイの小説家であるウティット・へ―マームーンによる原作小説をチェルフィッチュ主催の岡田利規演出にて上演。

上演時間は四時間超で休憩が二回ほど。かなりの長丁場だったが、骨太で歴史が詰まったプロット、またContactGonzoによる空間デザインも美しく流動的で飽きることはなかった。原作小説は未読であったが、”欲望“という意味のタイ語である「プラータナー」と岡田利規がテーマとしている「身体と亡霊」というテーマがうまくミクスチャーされた作品だった。

 

事前に配られたパンフレットとレジュメにはびっしりとタイ現代史の用語説明が書かれている。私自身も東南アジアの現代史はとてもドラスティックで全容をきちんとつかみ切れておらず、その中でも特にタイの現代史は特に難しいと感じていたため、必死に用語説明を読んだ。タイは本当にいわゆるアンシャン・レジームと仏教や地方差別などがぐちゃぐちゃと混ぜられて現代に引き継がれているのでそれぞれの対立を読み取るのが難しい。

  しかし作品はとても深遠に、そして批判的にタイの現代史をなぞる。戦後、シラパコーン大学に入学したアーティストの人生を通して表現される激動の歴史と欲望に彩られた日々を観劇者自身が追体験しているような感覚になる。

 

身体と亡霊、身体であったものがカメラやネットを通じ亡霊になっていく。亡霊を通じて暴力と欲望は永遠に続いていく。歴史も同じだ。構成員は絶えず変わっているのにいつまでも歴史や伝統といった亡霊に憑りつかれ続けている。

21世紀、アジア諸国は近代化の渦の中でどう在るかを探してもがいている。そしてそれはリッチアジアと呼ばれ別扱いされている日本も同じだ。

腐りゆく肉体を持て余してなんとなく生きる日々に充満するのは気だるげで苦い憂鬱。

 

 この作品は休憩含め上演時間がなんと四時間という超ロング公演だったのだが、その強制力による苦痛さも込みで演劇というのは面白いと私は感じている。例えば現代であればブロードキャスティングやライブ配信、またDVDといったメディウムで演劇や映画を巻き戻したり一時停止したりして見ることができるが、演劇はそうはいかない。演劇側のペースに観者をある意味暴力的に巻き込むのだ。それは自分以外のものを内部に入れる(外部に身をゆだねる?)体験であり、それは日々普通に生きていれば起こらなかった価値観のゆらぎや視点のシフトを起こしてくれる。それもまた自分の世界を広げる経験なのだと思う。