the garden of entropy

芸術カルチャーらへんが好きなKO学生が書く粗雑な感想たち。基本思いつきなので途中で投げ出したりするけど許してネ。

3月の五日間

 クリムトの絵には人間の塊みたいなのがよく描かれている。ウィーン大学の天井画の三作や、後期~晩年に描いた《死と生》、《花嫁》が代表的だ。苦しんでる人、抱き合ってる人、恍惚としてる人、寝ている人、男も女も子供も怪物も一緒くたにごちゃごちゃと塊となっている。私が初めて戯曲『3月の五日間』を読んだとき、なんだかこの人間の塊みたいな語り口だなあと感じた。

 ミノベくん、の話をしていた女の子が、いつのまにかミノベくんになり、ユッキーになり、またユッキーの話をする誰かになり、またいつのまにか別の人がアズマくんの話をする。人の境界線は曖昧で言葉もすべて曖昧、物語もすべて一定の距離を持って語られている。「みたいな」「らしい」「的な」という明言を避ける言い方が、やる気と責任感の欠如を物語っていて、演劇の全体を脱力感で包み込む。

 全てに対して一定の距離をとって、ぼうっと眺めているような登場人物たち。その意味では彼らは私たち観客と同じだ。目の前で起こっていることに一定の距離感を持って無関係なようで考えようと、関与しようと必死な眼差しを投げかける。

 ただし、ミッフィーちゃんは違う。勘違いして前のめって暴走して相手引かせてそれに気が付いて自己嫌悪そして希死念慮。痛い系、困った系女子。全人類一度はやったことのある過ち。というか痛い、って説明できないけど痛い感じの女の子と言われれば割と誰でもこういう感じかなみたいな想像はつく。ミッフィーちゃんはその典型だった。

 彼女は物語の中でも一人浮き続け、彼女自身は誰かを憑依させるようなことはなくただ永遠と自分を語り続ける。犯した過ち、自分の成り立ち、孤独感。そして彼女は火星に行こうとする。その孤独を突き付けられなくて済む宇宙空間へ。渋谷にいてもどうせ孤独なんだから火星にいても一緒だしね、と不思議な共感を感じた。 

 2003年、戦争は海の向こうの向こう側で起きていることだった。私は確か小学生で、周りも特にイラク戦争やばいね!なんて話もせず、まあ小学生だし、何もわかるはずもなくその後テレビでひげがもじゃもじゃのフセインが処刑される前の項垂れたような、がっかりしたような顔を見て、え、この人この後死ぬんだ。怖。って感じたのを覚えている。

 戯曲で描かれた人々は私よりも一回り上の大学生たちで、小学生だった私よりもデモに参加することができたり映画に一人で見に行くことができたり六本木のライブハウスに行くことができたりラブホテルで泊まりこんでやりまくることもできる。それはある程度の自由がある、というか自己選択権があるってことなんだと思う。けど結局都市の中で焦燥感のようなうっすらとした焦りを持ちながらなんとなく生きてしまう姿が私含めた同年代の周りの人間をよく表していて凄いなと思う。

 この戯曲は別に政治的な意味なんて無く確かリアル、を浮きだたせようとして書いたんだっけな。けど私自身の体験と戯曲がリンクして、ああ、もう少し頑張らなきゃと勇気づけられる。あとトラフ建築設計事務所の舞台美術が素晴らしかった。横断歩道を装飾文様的にしちゃうの素敵。

 

三月の5日間[リクリエイテッド版]

三月の5日間[リクリエイテッド版]