the garden of entropy

芸術カルチャーらへんが好きなKO学生が書く粗雑な感想たち。基本思いつきなので途中で投げ出したりするけど許してネ。

【シアターコモンズ2025】幻視と記憶の網目 ― 境界を超える想像力【メイ・リウ「homesick for another world」】

 


2月24日、スパイラルホール青山で上演されたメイ・リウのレクチャーパフォーマンス『homesick for another world』は、抑圧された記憶と解放の夢が交錯する旅路とも言える素晴らしい作品であった。

 

 

最初にリウが作成したコロナの予兆のような映画脚本から始まり、そして彼女自身が当時体験した上海のロックダウンの話になる。それらは単なる感染防止のための物理的な監禁ではなく、権力による深層的な抑圧の隠喩として立ち現れる。そして香港のデモを支持するツイートをしたことで青い壁に閉じ込められた青年の語り、コロナ禍を楽しく過ごしたというおじいさんの悪夢に現れる毛沢東時代の強制移住、そしてリウが旅した国境地帯で触れたミャンマークーデター後の悲劇──これらの物語は、個人の身体を超えて、集合的な苦痛の地図を描き出す。

 

 

リウは明晰夢を一つの解放の回路として描く。それは理想のゾミア──国家の境界線から自由な、アナーキーな空間への憧憬。夢は単なる幻想ではなく、抑圧された者たちが出会い、つながる秘密の回路となる。しかし、目覚めとともに消えゆく夢の儚さは、現実の残酷さを際立たせる。

 

ミャンマーの囚人が仲間の記憶をタトゥーとして肌に刻む行為について語る──それは単なる追悼や記録だけではなく、これは生き残った者が担う、抹消されまいとする歴史の証言。夢、現実、記憶が網目のように絡み合い、国家の暴力に抗う生のありようを示す。

 

リウの作品は、監禁と解放、記憶と忘却、夢と現実の境界を揺さぶる。「別の世界へのホームシック」という詩的なタイトルは、抑圧された人々の普遍的な渇望──自由と尊厳への希求を象徴している。
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記憶は生き続ける。静かに、しかし確かに。メイ・リウは、沈黙を強いられた声たちの、静かな抵抗の詩を紡ぐ。

【シアターコモンズ2025】歴史の層と忘却の痕跡 ― 記憶の地層を掘り起こす旅【ジョアナ・ハジトゥーマとカリル・ジョレイジュ「オルトシアのめくるめく物語」】

 

2月24日、スパイラルホール青山で開催されたジョアナ・ハジトゥーマとカリル・ジョレイジュによるレクチャーパフォーマンスは、歴史の深層に潜む物語を紡ぎ出すレクチャーパフォーマンスだった。

 

彼らのインスタレーションは、まるで考古学者が慎重に地層を剥がすように、見えない物語を浮かび上がらせる。古代ローマ都市の遺跡とパレスチナ難民キャンプという一見かけ離れた二つが、重なり合う驚くべき瞬間。レバノン出身の二人のアーティストは、個人の記憶と集合的な歴史の交差点に彼らの視線を入れる。

 

パフォーマンス中に語られる彼らや周りの記憶は、紛争とディアスポラという複雑な人間の経験を、彼ら自身のバックグラウンドと共に描き出す。カリルが感じる「めまい」を引き起こすメキシコのピラミッドや難民キャンプの景色は、単なる風景ではなく、歴史の傷跡そのものとして立ち現れる。考古学、歴史、ディアスポラ・・・それらの語りを聞いていく中で人間史の理不尽さと同時に、広大ささえも感じさせる。

 

アーティストたちは歴史の堆積した地層に微かなノイズを記録する。それは、忘却の淵に追いやられた物語への静かな抵抗であり、未来の発掘者たちへ託される手紙のように、彼らの作品は沈黙を破る力を秘めている。

 

この展示は、単なる芸術作品を超えて、記憶の地政学的な地図を描き出す。歴史の層に刻まれた傷跡を通して、私たちは人間の苦難と希望の複雑な織物を垣間見る。ハジトゥーマとジョレイジュは、不可視の物語を可視化することで、忘却という暴力に抗う芸術の力を示したのだ。

 

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人間の記憶は地層のようだ。時に埋もれ、時に突如姿を現す。この展示は、そんな記憶の地質学への深い洞察を私たちに提供してくれた。

 

 

#アートレビュー #現代美術 #展覧会 #ジョアナ・ハジトゥーマ #カリル・ジョレイジュ 

自分ごととしての政治

 

 久々の祭り、衆院選が始まった。現在私の籍がある直島町「香川1区」と呼ばれる注目区だった。菅内閣のデジタル担当大臣であり地元の有力一家の御曹司こと平井さんと、2020年に20年近く彼を追ったドキュメンタリー映画が公開され話題の小川さん、そして維新から出てきた町川さんの三つ巴の戦いが連日地元ニュースを賑わせていた。

 

 

 私はせっかく自分の選挙区の人がフィーチャーされてるなら・・・と映画「何故君は総理大臣になれないのか」(大島新監督)書籍『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた』(和田靜香著、取材協力小川淳也を視聴&拝読。

 

 

 正直二つとも凄く面白くて揺さぶられたので、これは政治信条関係なく日本の今を生きる人に見てほしい、読んでほしいなと感じた。正直現在の日本の政治のクオリティは著しく低いと思っていた。分断を煽るポピュリズム、マイノリティや弱者への配慮もなし(なんならやべえ言説が代議士から出てくる)、国民よりも既得権益が大事で何も動かない社会に失望していた。野党はすぐ内輪揉めするし・・・とため息をついて政治に興味を持つことを自分自身も辞めていた気がする。しかしそれは自分が持っている権利、自分の生活に責任を持たないという自己放棄みたいなもんだったんだなと反省した。

 

 

 前者はドキュメンタリーとして政治家小川淳也の初出馬からコロナ禍の現在に至るまでの政治家人生を淡々と映したフィルムだった。小泉政権時代から始まる彼の政治人生はまさに嵐。二度の政権交代小池百合子の乱による野党瓦解、現在の自公政権に至るうねりの中で彼がどういった選択してきたかを鑑賞者はカメラを通して見る。高松出身、郊外の小さなパーマ屋の倅として「世の役に立つ人間になれ」と父から言われ高松高校進学(県内1の進学校)、からの香川の育英寮に入り東大進学、そして官僚へと親孝行にも程があるルートを歩んできた小川さん。しかし突然ルートを外れて32歳、子供も二人小さいのに地元香川で出馬を決意する。理由は「世の中をよくしたいから」いやいや、代議士なんて自己顕示欲と承認欲求と支配欲求云々で・・・と言いたくなるが、政策について語るのを聞いている限り彼は本気だ。めちゃめちゃ本気だ。それなのに有権者たちには届かず、瓦町の駅前、娘の目の前で有権者に罵倒される姿は辛過ぎてこっちが見てられない。最初のキラキラとした瞳で落ち着きなく未来への政策を語っていた彼から10数年、政治という暗黒が彼の目を澱ませ顔に皺を増やしたのは明確だった。それでも世の中を良くするための政策を考え要綱まで出版してたのは何というか、普通に狂った人だなと感じた。笑 本当に世の中を良くしたくて政策を考えている人なのだ。しかし現実は甘くない。東大卒が持てる知識を駆使した上で本気で考えた政策なんぞ日本の有権者は興味も無く、それこそ地域で絶大なる支持と支配力を持つ平井一家の御曹司に勝つことなんて無理だった。しかし2021年、何と悲願の小選挙区勝利を果たすことになるとはこの映画時に誰が予想してたのだろうか・・・。映画も去ることながら、相手方の不祥事と奢りが彼の追い風となったのだと思う。しかしこれからまた政界のうねりが彼を襲うのだろう。彼はその中でどんな選択をするのか、是非大島監督に追ってもらいたい。

 

 

 書籍『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた』も拝読したが、とても読みやすく政治をきちんと学んでこなかったがぼんやりと問題意識はあって、でも踏み込むのは怖い。そんな人にぴったりの本だと感じた。和田さんのかわいらしく、社会問題とは結びつかないような「ゆるさ」と「真面目さ」で彼女が持つ社会への不満、また疑問を小川さんにぶつけ、小川さんが懇切丁寧に説明する。彼の考える北欧的社会(大きい政府、緊縮財政、緩やかな脱原発・・・)のステイトメントを聞く中で和田さんがちょっと待ったあ!と言わんばかりに反論したり、感情的に意見をぶつけたりする。その度に小川さんはまた丁寧に主張し、また時々日本の片隅にいる人たちを想像して号泣したりする。代議士で国民のことを思って泣ける人がいるんだ・・・と驚いてしまったのはやはり政治に対する失望が根深かったことの表れなのか。しかし読んでいて、今社会が孕む問題へどう対応していくのか。それは国民と政治家できっちり対話して決定していく。というのが民主主義だったはずなのに私たちはそれをノーマルとして考えられていなかった。勝手に放棄して勝手に失望していたのは私だったのだ。続く自公長期政権で政治はほぼ腐敗している。しかし腐敗させるぐらい放置したのは有権者なのである。勝手にメディアの印象とSNSの印象で動き、きちんと社会を知ることも、参画することも意見することもしなかった、アクティヴィズムをすることを放棄していたのは私だったのだ。

 

 

 私みたいな人は日本に沢山いると思うが、きちんと自分ごととして社会に参画すること、そして全ての仕組みを幅広く勉強することが生活において大切なのだと感じている。それは都市の希薄な繋がりの中から、離島のDIYコミュニティ精神へと身を移したのも影響していると思う。刺激を受けて勉強?し始めたMMT、人新世、脱成長やらさまざまな門外の言葉の間の中でそんな賢くない私は狼狽えているが、自分なりにマイペースに勉強していきたいし、ぼんやりと政治を忌避している人がいたら、是非上記の映画と本を見て貰いたい。信条とかに関係なく、政治がどこか身近になると思う。自分ごととして社会と地続きの生活を生きること、それが自分にできる小さなアクティヴィズムなのかなと思うし、日本人はもっとその意識を持つべきだと、アジアの友人たちと比べて見ても思う。

 

 

 

 

 

 

ウティット・へ―マームーン×岡田利規『プラータナー 憑依のポートレイト』バンコク公演

チュラロンコン大学にて初演が行われていた『プラータナー』を観劇。

タイの小説家であるウティット・へ―マームーンによる原作小説をチェルフィッチュ主催の岡田利規演出にて上演。

上演時間は四時間超で休憩が二回ほど。かなりの長丁場だったが、骨太で歴史が詰まったプロット、またContactGonzoによる空間デザインも美しく流動的で飽きることはなかった。原作小説は未読であったが、”欲望“という意味のタイ語である「プラータナー」と岡田利規がテーマとしている「身体と亡霊」というテーマがうまくミクスチャーされた作品だった。

 

事前に配られたパンフレットとレジュメにはびっしりとタイ現代史の用語説明が書かれている。私自身も東南アジアの現代史はとてもドラスティックで全容をきちんとつかみ切れておらず、その中でも特にタイの現代史は特に難しいと感じていたため、必死に用語説明を読んだ。タイは本当にいわゆるアンシャン・レジームと仏教や地方差別などがぐちゃぐちゃと混ぜられて現代に引き継がれているのでそれぞれの対立を読み取るのが難しい。

  しかし作品はとても深遠に、そして批判的にタイの現代史をなぞる。戦後、シラパコーン大学に入学したアーティストの人生を通して表現される激動の歴史と欲望に彩られた日々を観劇者自身が追体験しているような感覚になる。

 

身体と亡霊、身体であったものがカメラやネットを通じ亡霊になっていく。亡霊を通じて暴力と欲望は永遠に続いていく。歴史も同じだ。構成員は絶えず変わっているのにいつまでも歴史や伝統といった亡霊に憑りつかれ続けている。

21世紀、アジア諸国は近代化の渦の中でどう在るかを探してもがいている。そしてそれはリッチアジアと呼ばれ別扱いされている日本も同じだ。

腐りゆく肉体を持て余してなんとなく生きる日々に充満するのは気だるげで苦い憂鬱。

 

 この作品は休憩含め上演時間がなんと四時間という超ロング公演だったのだが、その強制力による苦痛さも込みで演劇というのは面白いと私は感じている。例えば現代であればブロードキャスティングやライブ配信、またDVDといったメディウムで演劇や映画を巻き戻したり一時停止したりして見ることができるが、演劇はそうはいかない。演劇側のペースに観者をある意味暴力的に巻き込むのだ。それは自分以外のものを内部に入れる(外部に身をゆだねる?)体験であり、それは日々普通に生きていれば起こらなかった価値観のゆらぎや視点のシフトを起こしてくれる。それもまた自分の世界を広げる経験なのだと思う。

 

クラスメイトのMinkを誘いBkk art book fairに行ってきた。Book fairは若者でごった返しており若干人混みにあてられる。キュレーターによると東京のart book fairを踏襲して開催されたそうで幾つか日本の団体もいた。私は中国のZineに惹かれ購入。漢字に馴染みがあるからか知らないが中国語で構成されたものが凄い好きなのだ。チャイナタウンの毒々しい漢字のネオンとかも大好き。またその団体さんが売ってた雑誌に柄谷行人の名前を見つけた。かつての日本の代表的な批評家が今中国の若い人々によってこう紹介されてるのか〜〜と思うと感慨深い。

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その後ホドロフスキーのHoly mountain上映がJAMライブハウスであるらしいということでそこに向かった、が、あまりにもローカルな立地とDOPEすぎる外装に慄く。上映も深夜に食い込むとのことだったのでまた今度とその場を後にした。

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その後カフェを探してウロウロしていると、不思議な中国系の寺なんだか公園なんだかもうとりあえず不思議な場所へと迷い込んだ。しだれ柳で縁取られた道、そして一面を覆う墓!!中国の墓はポップな墓碑と棺(?)を埋めた土から緑を生やしている不思議な土葬っぽい感じ。そしてその周りには平気でフィットネスやバトミントンコートがあり中国系の人達の憩いの場となっていた。ここなんなんだろうと思いながら緑いっぱいの墓ロードを歩いた。

 

バンコクのすごい所は、王族でも住んどるんか?!?!的な高級駅前コンドミニアムに驚いた後、小さなsoiを少し入るとその瞬間に突然バラック街のようなガチローカルに出くわすところ。それは経済格差の表象でもあるんだろうけど、私はそのナチュラルな歪みがこの世ってサイケだなと感じられるので好きだ。そう、この世って普通にまともなんかじゃないのにどいつもこいつもまともヅラしてベラベラいろんなこと喋ってるのが不思議でならない。ナチュラルに狂ってる不思議な世界が表象されてるのを自分の目で見るのはとても刺激的で楽しい。

バンコクに留学しています ギャラリー巡り1

 数日前からバンコクに滞在しています。大学の交換留学でタイのチュラロンコン大学(タイでは少し保守的な国立トップ校)にて文化政策を学ぶ予定です。

 一応悪筆ながらバンコクでの生活や芸術、アートの調査等を自分なりに行ってみたことをこのブログで記録していけたらなと思います。けど普通に趣味のことも書きなぐるつもりですイェーイ

 

 昨日はとりあえずギャラリーを幾つか見てみようということでエカマイやプロムポンあたりをうろつく。

 ギャラリーが駅近にあまりなく(公立のは駅前なんだけども)モーターサイというsoi(通り)の中なら値段据え置きで乗れるバイクタクシーにて移動。普通20Bのはずだが韓国人だろと30Bぐらいとられる。いやコンイープン(日本人)だわと思いつつ金を払う、今度は強めに行こう。

 まずはS.A.C.Subhashok The Art Centerを訪ねた。メインギャラリーは丁度展示替えで常設展しかやっていないとのこと。ありゃまーと思っていたらキュレーターのお兄さんがお詫びにオススメのバンコクのギャラリーを全て教えてくれるということでバンコクアートマップ(ギャラリー等が共同で制作しているらしいマップ、全部英語なので有り難い)を参考に色々お勧めギャラリーを聞いた。一応こちらにもメモ→○Case Space Revolution○Gallery ver N22○C.a.p studio Residence(これはチェンマイだそう)

 ギャラリー自体もあまり人が来ないらしく雑に作品置かれてるわ温度調整されてないけどええんか?!と心配になったが作品自体は良かった。サブ展示は、本業はファッション写真家のLik Sriprasertの展覧会をやっていた。美術を学びながら写真も制作していたようで彼の作品は確かにファッショナブルなポートレイト風の作品が主だ。色彩の用い方は少し暗いが暗い中にビビットな赤や青をアクセントにしている。

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 次に向かったネットで調べていたギャラリーは潰れておされレストランになっておりメンブレ。わざわざGrabしたのに…(東南アジア専用のタクシー配車アプリ、割高だけど安心なのだ) レストランのお兄さんにドンマーイ~マイペンライ~エカマイ楽しいで~と言われながら帰り道スコールに降られる。けどモールの入り口とかでたむろしながらスコールをみんなでやり過ごす感じが凄い楽しい。近くのねえちゃんはスコールの間食べてたケンタッキー三本を雨が上がった瞬間ポイ捨てして猫にあげていた。うーーん、食物連鎖(??)

役に立たないものは価値がないのかっていうことは芸術が基本否定してくれてます

 相模原事件の際、ネットで犯人の思想に関して「考えていることは正しい」と結構擁護する意見が多かったのを見たときから日本の社会にある「役に立たないものは価値がないもの、存在すべきではない」という価値観について考えていた。

 最近問題になっている、杉田議員が「生産性の無い人々に支援する意味はあるのか」ということを言っているのをみて、やはりその価値観は日本のメインストリームなのだなと感じたのと同時に私自身のその考えを内在化させていたことに気が付いた。私の場合他人にそれを向けるというよりは自分自身の立場や属性等から私なんて…という自己コンプレックス方面に振り切ってたため僻み根性みたいな感じだったが、結局あり得ない!と批判していた杉田議員や植松容疑者と同じ価値観を自分の中に持っていたのだ。発露の仕方が違っていれば私もこの人たちのようになっていたんだろうなと思いゾッとした。結局自分に向くか他人に向くかの違いだけだったのだ。

 

 この前、小説家の王谷 晶さんが数年前自分がネトウヨだった時を書いた記事を読んだ。王谷さんが「学歴も職もなく人生からコースアウトしてしまったと思っていたけれど、それでも「日本人」という属性だけは剥がれ落ちていない。だからそこを褒められると自尊心がくすぐられて、嬉しかったのだと思う。」と記事で書かれていてあーーそうかーーネトウヨになる一部の人たちもこの価値観を内在化させてるからなのかーーと膝を打った。役に立たないゴミみたいな自分でも日本人である内はマジョリティ、価値があるから存在してもいいとなる気持ちはよく分かる。ネトウヨに対しても(まさかのネット上にて)噛みつきがちな私だったが結局その人たちも同じ価値観を有して日本に暮らしている人間だということにそこで気が付いた。 

 日本の大多数の人が「役に立たないものは価値がないもの、存在すべきではない」と信じていて、そこから逃げるためにある人は技能を磨き、ある人はSNSで成果や充実、貢献をアピールしそこからあぶれた人たちはコンプレックスや歪んだ愛国心を持ち、そして全員が価値のないものを排除する方向に行く。

 

 かつて坂本慎太郎No music No Lifeのコピーに「音楽は役に立たない。  役に立たないから素晴らしい。 役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい。」と書いてあって、見つけた私は感動して一時期待ち受けにしていた。「役に立たないものは価値がないもの、存在すべきではない」へのアンチテーゼはまさにこれなんだろうと思う。

タワーレコードホームページから

 

 ホドロフスキーの「リアリティのダンス」も障がい者を虐げていた父が障がい者になり、そして差別していた彼らから真の愛を与えられるという描写があって構造がうまいなあと感じていたが、このご時世に生きる今彼が晩年描き続けている生命礼賛の大切さを感じる。私はまだマジョリティに染まってねえヅラして生きてきたが、もう全然まだまだなのだなということを最近気が付いたので自分自身と向き合って価値観を流されないように生きていく。役に立たない、低スペック人間は価値がないものだと平気で言ってのける世間にNoを突き付けられるよう強い意志を持ちたいですな。