the garden of entropy

芸術カルチャーらへんが好きなKO学生が書く粗雑な感想たち。基本思いつきなので途中で投げ出したりするけど許してネ。

市原佐都子/Q『地底妖精』

会場:早稲田小劇場どらま館

出演:永島由里恵(青年団)、中田麦平(シンクロ少女) 

舞台美術:高田冬彦 

 

 私達がいる世界は毎回何かを隠して均衡を保っている。実は人間の身体の中には汚いピンク色の臓器が蠢いていること、私達が食べた美味しいご飯はそこであの茶色い排泄物になること。私達が日々必死に消している汚物と死の臭気。

 

 

 市原さんの作品に出てくる登場人物、主に女性の身体は毎回緊張して強張っている。ヒステリック、痙攣、麻痺、不随の身体。異常にしか見えないその身体所作は生まれたまま、ありのままに生きられない歪な登場人物たちが必死に世界へ、社会へ輪郭を合わせようとした結果なのだろうか。彼女の作品には、その出自による血、先天障害、性別、見た目の醜さといった要素で「普通」からはみ出した人々が、匿名性を持って現れる。それは誰でもなくて誰でもある「普通」からあぶれた人間なのだ。

 「普通」の私達は汚物や死と同じように、普通ではない人から目を逸らしている。それか心の奥底にある異形への恐怖、差別、悪意を誤魔化した善意で彼らに優しさを「施す」こともあるだろう。見えない、見てない、けど、あるもの。市原さんの作品は、実生活では痕跡を消された「みえない」ものを暴いている。

 

 

  丁度アリストファネスを始めとしたギリシア喜劇について学ぶ機会があり、かのK先生から喜劇の要素は、セックス、スカトロジー、グロテスク(奇妙)という話を聞いた。その話を聞いていた時、私は市原さんの作品の構成要素はまさに喜劇ではないかと感じた。ギリシア劇には劇中でパラバシスという登場人物が劇の枠組みを逸脱して作者の信条等を語る場面があるのだが、劇中に何度か挿入されるユリエリアの演説のような語り(出自の特異さから妖精に受け入れてもらえない自分の立場、マーマレードボーイを例に出し何故愛があっても近親相姦は許されないのかという問い等)もパラバシスのようだった。

 演劇自体が身体や人に語り掛ける力の強いメディウムだと思うのだが、その中でも笑い、と身振り、言葉の強さがある作品は語り掛けるパワーが凄まじい。市原さんの作品にはその全てがあり、今回は高田さんによる臓器のような無数の地底芋が吊るされた舞台や、永島さんの迫力の白目ひん剥いた演技が合わさるので最早暴力的な力を持った喜劇になっていたと思う。素晴らしかったです。