the garden of entropy

芸術カルチャーらへんが好きなKO学生が書く粗雑な感想たち。基本思いつきなので途中で投げ出したりするけど許してネ。

様々な文化がぶつかりあった地、ベトナム―①

3月6日から14日まで、機中泊を含め計7泊、ベトナムへと旅行してきた。

 

まず最初にホーチミン三泊→ホイアン二泊→ハノイ三泊というプランだった。水曜どうでしょうには至らないが軽いベトナム縦断の旅である。(といってもフエやディエンビエンフーに寄ってないのは中々の痛手)

 

何故ベトナムなのかというと、まあ発展途上国大好き系大学生(?)なのもあるが、高校時代からずっと行ってみたいと願っていた国だからである。世界史でも特段重要な位置を占めているベトナム。徴姉妹の反乱、ドンソン文化、チャンパー(はどっちかというとカンボジアか?)、阮朝李朝…そしてベトナム戦争からのドイモイ政策は受験勉強を終えてしばらくしてからも思い出せる。

 

行く前は漠然と、ポストコロニアル的な世界を思い描いていた。フランス支配の影響やアメリカとの戦争を経て生まれた西洋と東洋がぶつかりあった地なのだと。しかしベトナム史の新書を読みいざ行ってみると、そのような面よりも中国の色が強いことに気がついた。もちろん西洋の色も濃い。かつてチュノムで書かれていた言葉たちはフランスの発音記号へと直されているし、多くの主要建物は西洋風の建築にされている。しかし所謂歴史的建造物、そして偉人たちの名から感じるのは中国の文化である。それもそのはず、ベトナムは日本と同じく中国の冊封国として存在していた。ベトナムのナムは「南」という意味で中国の南という意味だそうだ。それ故に本国の人々は「大越国」という名称を用いるようにしていたそうだが、今現在はベトナムという名を用いている。(それは現政権がかつて中国の支援を得て作られたものだからというのもあるらしい)

また少し笑ってしまうような一言だが、私が考えるよりもずっとずっと社会主義国であった。街にはそこらじゅうにプロパガンダが掲げられている。偶像と化したホーチミンの肖像たち、真っ赤な背景、深緑の軍服を来た国民たち。北朝鮮ソ連のイメージでしかなかったものが実在として目の前にあるのは感動だった。未だに共産党一党独裁ということだが、まあシンガポール然りそのおかげであの戦争の荒廃を乗り越え現在に至っているのだろう

今回そんなベトナム旅行記をささやかなながら写真と共に書かせていただく。

競売ナンバー49の叫び

ピンチョンついに読んでます。スローラーナーと競売ナンバー。あとインヒアレント・ヴァイス、そしてこれから重力の虹~

前々から気になっていたけど、前評判のせいでどこか触れられずにいたピンチョン。

意を決して読んでみたら、私この人好きだ!と思える作家さんだと気が付いた。

 

意味深なのか意味不明なのか

全ての言葉は強迫観念として私達へと迫る

パラノイアで分裂しまいと苦しむのか?はたまたハナから分裂して「匿名」へと還元、消滅するのか?

全てのカオスと妄想が混ざり合った瞬間にエントロピーは最大値になる。

圧し掛かる遠い歴史、悲しみ、アメリカ。

 

分裂したのは私なのか、世界なのか、それともあなた、?

真実は、いつだって息が詰まるほどに空っぽだ。

 

 

ピンチョンの優しさ、が垣間見えるといったらおかしいのかしら。

彼の作品には人間への失望と、愛情が入り混じっている気がします。

それも、偽物なのかもしれないけれど。

是非に読んでほしいっす。

けどできることなら原文がよいのかもしれない。 

 

 

FUJIROCK 2014

初フェスはフジロックでした。

めーっちゃ疲れたしなんかストイックにバンド見たけど、充足感が本当にすごかったな。

見れて良かった、その一言でした。

まあその中でも特に印象に残ったといいますか、個人的に文字化させたいかな~と思ったバンドをいくつか挙げて感想を書こうと思います。温度差あるけど許して。

25日(金) テントダッシュで体力既に奪われていたが見たいものが集中していたので、クライマックス

TEMPLES:噂通りのサイケデリックだったがなんだかギターのお二人が萩尾望都漫画にいそうだった。

FOSTER THE PEOPLE:楽しみにしてた以上のアクトでした。感動した。いや、曲が誰でもノリやすいしかっこいいっていうのはもうみなさんご存知の通りですよ。もうね、ちゃんとバンドしてるのにイケてるんだよなあ。いや、ちゃんとバンドしてたらイケてないとかそういう意味ではなく。本当に音楽が好きでルーツとかちょっと見てみても絶対ナードだろ!って感じなのにこうモテ路線にいくのが天才的だなと笑 しかし、大衆性も獲得しつつちゃんとアート性も持っているバンドなのは今の時代唯一無比ではなかろうか。ポピュラリティとアート性の絶妙な均衡を保っていると私は感じました。マークフォスターなんか超セクシーエモになってたし!最高っした!

BOMBAY BYCICLE CLUB:本命バンド、かわいい!なんて印象が強いバンド。多分女子ウケ○ マーキーだったけど背景のアートワークと照明に対するこだわりというか、全体的に自分たちがどうやれるか、どう見えるかという意識がすごく強いなと感じた。プロ意識。世界観への妥協しない姿勢。Lunaのジャケ写みたいなこう周期、月、女性・・・そういったものがメインとなったアートが背景に映し出され、本人たちはあのインディロックドストレートの曲を歌い上げる。やはり題名にBOMBAYと入っているだけあって、インド哲学への強い意識を感じた。背景のアートワークは月の周期と共に人やコブラが描かれていたり、宇宙の後に女性の身体が映されたり・・・うん、ウパニシャッド哲学。反体制非西洋としてのインド。まさに"UKインディーロック"でした。こだわりを強く客をその世界へと引きこむ、流行に引きずられることなく我が道を行く姿、見てよかったなあ。

BASEMENT JAXX:まあ楽しいよね笑 まあノリノリだよね笑 最高でした。 しかし気になったのは演奏陣が全員白人なのに対してボーカルには黒人かアジア人しか起用しないあの徹底したオリエンタリズム?非西洋主義?

なんというか、逆に植民地主義コロニアリズム的な何かを感じました。

しかしフロントマンがナードっぽいのがいいよなジャックスは。

本当に音楽好きなんだろうな~といつも思う笑 仲良くしたい

26日 つかれていたけどArcade Fireのために生きていました。

TRAVIS:もうね、涙腺崩壊ですよ。なんなんだトラヴィス!最高じゃねえか!なんだ森おじいちゃんみたいなボーカルの声!天性すぎるだろう! グリーンステージをどこか優しくて、懐かしくて、暖かい"どこか"へと一瞬にして変貌させた。ボーカルの声は本当に木漏れ日みたいな、暖かくて優しい。また森おじいちゃんみたいな見た目だからさらにその暖かさが増長する←? うーん、仰々しいかもしれないけれど 「救いの音楽」 だったなあ。 優しく人の存在を、そのまま肯定してくれていた。 メンバーがなんか仲よさそうでかわいいだよなあ。いい年したおじちゃん達、わちゃわちゃしてた。

ARCADE FIRE:大大大本命ことヘッドライナー。 ガチ勢したはずなのに柵から三列目ぐらいだった・・・グラミー賞アーティストおそるべし。 コーチェラのストリーミング見て授業中に大興奮したのが懐かしい。 いやもう登場を待つまで高まりすぎてはきそうだった、足も腰も限界に近づいていたけどここでリタイヤはできないって自分を鼓舞していた笑

誰もが言っているけれど、素晴らしいライブだった。このバンドもこだわりというか、どちらかというと音楽よりも先に自分たちが表現したいものが先行しているんじゃないかな。その一手段としての音楽というか。音楽が目的ではないんだよなあ。

メンバー全員がマルチプレイヤー、ドラム、ベース、グロッケン、キーボード。。。全員くるくる回っていた笑

最初に出てきたリフレクターマン(勝手に名付けた)がちょうど見える位置にいたのだが、これがまたどう作ったんだろうか・・・という感じのもの笑 ただ映像だとわからないけど、直で見るとスポットライトが表面に反射して四方に光線が散らばっていた。本当に感動したなあこれ。どんだけ練られてるねんと。紙吹雪は本当タイミングも照明も神がかっていて・・・美しかった。

前から考えていたけれど、Arcade Fireって全体的に見ると曲の雰囲気は暗い。というか、死に対する意識が曲全体を覆っている。異国と過去へのロマンシズム、生と死、それが彼らがメインとしているものなんだと私は感じた。

私が拙く出した結論は「彼らは死を、畏怖を持って、肯定的に、そして希望を持って受け入れている」だ。

全然すっきりしない文章だけど、これだ。そして彼らはそれを歌っている。人類に遍く待ち構えている死、それはいつだって恐れられているし誰だって死ぬのは怖い。けれどそこから目を逸らさずに、希望を捨てることなく自分たちの先にある死を受け入れているのだ。

ぬあ~~~言いたいことがうまく書けないもどかしさよ

三日目はユアソンとアウトキャストGOODでした フレーミングリップスもぶっ飛んでてGOOD

これ完全に書くの疲れた感な FUJIROCK楽しかったです(雑)

存在の耐えられない軽さ

元々クンデラという名前は知っていた。題名がすごく印象的だったし。

LAに行って、感じたことへの答えがこの中にあるんじゃないかなあと直感的に思ったのでほぼ衝動的に本屋さんで購入しました。

ていうかね、この↓の画像の帯に「20世紀恋愛小説の最高傑作」だとかなんとかキャッチコピーが書いてあるが。

私はこの小説を恋愛小説だとは思わない。

確かに小説で描いてることは一貫して男女の関係だけれど、クンデラが書きたかったのはそこではないと思う。

この小説の始まりは作者であるクンデラの視点から始まる。ニーチェ永劫回帰について触れたあと、主人公であるとマーシュが何であるかということについて言及するのだ。その時点でなんだかパンチ効いた小説だな・・・。と感じていたがその印象は小説全体を読んでも変わらなかった。途中ベートーヴェンの楽譜を盛り込んだり、辞書みたいな書き方をしたり・・・。初めてみる小説の書き方をしていた。

まあ内容は読んでのお楽しみってことで。

私は内容よりも途中で盛り込まれるクンデラの哲学観(なのかな、とりあえず考え方)に衝撃というか、これだ!と思った。

Es muss sein!

これはベートーヴェンの一説らしく、小説の中に数えきれないくらい登場する。ドイツ語を直訳すると「そうでなければならない」となる。 人生が「そうでなければならない」という意味でしばしば楽譜と共に登場する。

このEs muss seinと価値と必要性が「重さ」として描かれている。人生において自分を地面へと結びつけるもの、決められた道を歩かせるように自分への「重り」としてあるのだ。ここで一部引用したい。

≪あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えること憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的となり、より真実味を帯びてくる。それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。≫

私がこれだ!と思った文(笑) 

Es muss seinへの度重なる裏切りによって、人は自由になると同時に「存在の耐えられない軽さ」を手に入れると述べている。伝統とか決まり事を裏切り続けることによって自由は会得できるけど、同時に人生の価値とか必要性を失うのだ。と。

また理想化されたEs muss sein、存在との絶対的同意は俗悪(キッチュ)なものにつながると述べている。社会主義による理想社会を唱えて「大行進」していた人々を指して俗悪なものだと言っている。たとえば異常に誇張された虚像に過ぎない幸福像だったり。共産主義とか北のコリアが私には思い浮かんだ。

兄弟愛みたいなものを強要するものはすべて俗悪だとクンデラは言っちゃっている。まあその通りだね。そして存在は死したあと俗悪なものとなり忘却されるのだとも。つまり人間が死んだあとは本人の意思とは関係なく存在は勝手に理想化され、良いようにいじくりまわされた挙句忘れられるということ。まあレジェンドとか基本そうだよなあ。マイケルジャクソンだって何か死んだら更にスポットライト当たったもんね。当時人々が死んだ直後に手のひらを返したように「あれは冤罪だった」「彼の肌は正真正銘の病気だったのにマスコミが・・・」と云々言い出した時、それ生きてるときに言ってやれよと思ったのを覚えている。

クンデラはきれいごとばっかりの存在論みたいなものを俗悪なものだと言って否定し、人間の重さや軽さについて当時の世界情勢に合わせて語っている。前衛的な文章と鋭い視点はすごいのに、小難しく語ってないのが良い。彼はまだご存命みたいだけどもう作品は書かないのかな?他作品も読もうっと。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
(1998/11)
ミラン クンデラ

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Let us meet Lost Angels ~失われた天使に会いに行きました2014~

今更ながらLAまとめたいな~と思ったのでこちらで。

ただの旅行ながら色々感じたり触れたりしたので記憶書きに書こうと思います。

まあ学生旅行といえなんか凄まじい日程滞在しました、途中死んだり無駄遣いしたけどすごい楽しかった。また行きたい。

LA、西海岸、ウエストコースト、サーフ、ハリウッド、ビーチ、ウェッサイ!w イメージそのまま、いや寧ろ思ったよりも治安が良い世界がそこに広がっていた。 夜中に外出したらその瞬間撃たれるのかと思いきや全然そんなことはないのであった。

滞在は会社さんの都合であのビバリーヒルズ近くに泊まりました。超治安良いしおしゃんなスーパーとかたくさんあったよ・・・モールも隣接してて最高だったよ・・・。

とりあえず、LAってめちゃめちゃ広い!当たり前なんだけど多分私達が考えるよりもずっとずっと大きかった。

全部は回れなかったな。けど、メインどころは行きました。

サーフロックが鳴り響く光の砂浜、ビキニ姿の女の子、そして砂に寝そべりながら少し眩しそうな目をした男の子。

8ミリフィルムの中、笑顔のハリウッドスター。銃を片手にシニカルな笑みを浮かべるジェームスディーン。

いいとこだったネ

ゆるやかな時間の流れ、自由な空気、過ごしやすい気候・・・。老後に住んじゃう人の気持ちわかるな!

ただ、自由な空気故に不思議な孤独感があった。 街の人たちはみんなフレンドリーだし敵意も無かった。けど、同時に自由に付随する自己責任を感じるというか。 どんなことがあっても誰も守ってくれない、自分の身は自分で守らなきゃいけない。それを何故だかのどかな風景の中でぴりぴりと感じ取った。 好き勝手生きて良い代わりに庇護や啓示はないのかなあと思った。日本は息苦しいといわれているけどそれは伝統とか家族制度みたいなしがらみによる自由の利かなさを指してるんだよね。アメリカはそれが無い代わりに存在がふわふわしちゃいそう。存在の耐えられない軽さ?クンデラだね

UCLAが所蔵しているHummer美術館も行ったのだけれど そこでTシャツとキャンディと紙をtake freeで貰いました。

Tシャツは「UP AGAINST THE WALL MOTHER FUCKER」と黒文字ででかでかと書かれているやつ(笑)反骨精神ごりごりなんでパジャマに愛用してます。そして紙には、過去に銃関連の事件事故で死亡した人の死亡日時と詳細な死因が書かれた紙でした。顔写真もついてたから銃社会というのがいきなりリアリティをもって近くに感じられた。

北野武が100人死亡とかざっと報道するのは統計的すぎて事の重大さが伝わらないとかなんとか言ったらしいけど、確かにそう感じた。こうやって顔と日時、死因を見ていたらその人の死というのがニュースで聞くよりもずっとずっと重くのしかかってくる。こういう社会派アートのが好きかなあ。友達は怖すぎて持ってたくねえ!!と拒否っていたw ハマー美術館、動物の死骸のタールづけとか飾ってたり全体的に殺伐としたものが多かった気がする。。 卓球できる楽しい展示もあったけど。

とりあえずここだけ!いや、もっとも~っとたくさん行ったんですよ、ハリウッドもサンタモニカもヴェニスダウンタウンもグラミー博物館もパンケーキもアボットケニーも・・・!

けど書きたいのこれだけだからいいや

失われた天使には会えた気がします。

どこでって?

おしえない

スヌープドックかブライアンに聞けばわかるんじゃない

ジムモリソンも知ってるかもね

ひどい終わり方

Andy Worhol展(ラファエル前派も)

所謂 森美はしごしてきました。

なんかアンディ・ウォーホルの先行イメージがあまり良くなくて、アメアパ系女子とか浅いくそ男とかが「アンディウォーホルいいよね~(ドヤ)」と言って酔いしれているイメージがあった。そんな感じの人々は若干イラッとするとも思っていて。。だから自分の中であまり大声で好きと言えないアーティストという位置づけにしていた。

まあアメリカンポップアートなんて消費を目的としたアートだし、アートを見る!というよりは可愛い雑貨を見に行くつもりで行ったけれど、思ったよりもアンディウォーホルの哲学というのが私的にぐっときた。

アンディウォーホルって本当に「アメリカらしさ」みたいなものを体現?している。大量消費、アメリカ賛美、大衆、、、すべてのシンボルを持っていた。

ハインツ、キャンベル、ハリウッドスター、レーガン大統領。去年とったアメリカ論でこのすべてはアメリカの大量消費社会と大衆向け文化の象徴とやったのを思い出して繋がった気がした。

ファクトリーと呼ばれるアトリエ的な場所で芸術作品を大量生産するというのはその時代では革新的なことだったのかな。大量生産が不可能に近い西洋絵画がメインストリームだったころと比べたら本当にそのアメリカ的な考え方って衝撃だったんじゃないかと思うんだけれど・・・。

アンディウォーホルは「アートが選ばれた少数のためにあるべきだとは思わない、アメリカの一般大衆のためさ」とか「表面がすべて、裏はなにもない」だとか「記者が求める通りに僕は答えるよ」と言い残したらしい。

それは少しidol的というか、大衆に求められた通りの自分を演じ続けるという意思表示なんじゃないかな~と私は感じた。大衆っていうとても身勝手で残酷で流されやすい最低最悪な集団(だと私は思っている笑)に消費されるというのは血の通った人間には到底不可能だ。だってとりあえず人間は消費物ではないし。しかしアンディウォーホルは「人間はすべて機械であるべきなのさ」と言っている。それって、時代に合わせて人間も消費されるようになるべきだという彼なりの哲学があるのだろう。

アメリカンポップアートってまあ”アメリカン”がついているだけあって資本主義の権化みたいなアートなのかもな~~けど、持ち物として「消費」しやすいので私は普通にすきです。

けどアートは大衆向けであるべきなのか選ばれた少数にあるべきなのか。大衆向けはアートじゃないのかっていう論争は割とあるようなないような。まあどちらにしろアートがアクセサリー化するのはよくないのかね。いや、結論別にそれぞれの楽しみ方があるんちゃうとか思うけど・・笑 

ラファエル前派はふつうに綺麗でした~終わり~

いや、あの写実的だけれども神話モチーフなのすごく好きです。ただその一言に尽きます。

いつかの世界史本で読んだアーサー王の7人の予言?みたいなシーンの絵がすごくすごく綺麗で絵柄的にラファエル前派っぽかったんだけど未だに見つからないのが心残りだなあ。

小沢健二が出たいいともを見た

あ~久々すぎる。

色々めんどくさいことが起きて、いろいろめんどくさいことをして、気分は下がっていたけどなんだかんだでそれを上回るくらい楽しいこともあったので持ち直しました。

また英訳したいな~ムーンリバーとかでやっちゃうかあ

そんなこんなで今日、2014年3月20日、憧れのあの人は16年ぶりにメディアに出るらしい。

短絡的な私はとりあえず わ~いと思いつつ録画予約を入れ、怠惰な生活の昼に8チャンネルを点ける。

16年ぶり、じゃあ私が4歳だったころが最後のメディア露出なんだ。

まあFNSだとかポンキッキとか、おざけんはフジTVと癒着しているイメージもあったし、タモリさんと通じ合ってる(何だろうそれ)イメージもあったのでいいとも出演っていうのはしっくり来た。

FNSでキョンキョンとコラボしたおざけんが歌っている最中にキョンキョンの手をがっしりとつかんでいて、キョンキョンが苦笑いしていたあの映像をよく覚えている。ほんとふぁっきんチャラ王子だぜ。

どきどきしながら鶴瓶師匠の体を張った芸を見過ごしていると、あの見慣れたセットに映像が変わる。そして見慣れたあのブラス音楽、そしてタモリさんがその名前を呼んだ瞬間、ふらりという擬音がぴったりな様子で彼は現れた。

私は所謂情弱なわけで、ライブも展覧会も行けてない。ていうか、ふら~っと中学二年のころにyoutubeで見つけたFlipper's guitarに惹かれてそのついでにおざけんをみつけて、TSUTAYAで漁った程度のファンだ。当時、母親に「おざけんとかナヨナヨしてるじゃない、趣味悪いわよ」と言われたのを覚えている。なんというか、私は本当に流れというものに疎くて小沢健二がこんなにメインストリームの人間だということも知らなかった。大学のサークルに入って初めてこの人ってこんな人気だったんだ。ということに気が付いた程だ。いやほんと知ってたら一年最初の曲だしおざけんにしたのになあ、もう遅いんだけど。って関係ねえこの話。

あの見慣れた顔には時の流れを感じさせる程にしわが刻まれている。相変わらずのボーダー。90年代女子はこのひょろっとした体とボーダーシャツに熱狂したんだろうなあ。彼は前よりも少し覇気が無くなったように感じた、声?なんだろう。

今までなにをしていたか、音楽、子供について。そんな話(既出の話多かったネ)をつらつらとして突然の弾き語り。強い気持ち・強い愛から始まってさよならなんて云えないよとかドアをノックするのは誰だ?とかアコギで弾き語って、そしてまさかの総理に次の電話を繋ぎ終わった。

結論はもう、羨望しかない。

こういう人生を送りたい。

そのために何をすればいいのだろうか。

けど模倣に過ぎない人生なんて絶対に嫌だ。色々なものの模倣を組み合わせて新しいもの作りたい。

ただそのためには努力が必要不可欠なんだろうなあ。

がんばろ!

おざけんをみてそんなことを思ったのでした。